なぜ福沢諭吉はこれほど著名な思想家・教育者になったのか

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仕事の関係で『福沢諭吉』(鹿野 政直 著/清水書院・人と思想)に目を通す機会があった。

改めて考えると、福沢諭吉の名前や、著書『学問のすゝめ』、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」の言葉、慶應義塾大学の創始者であることくらいは知っているが、せいぜい学校で習った知識程度である。一万円札の顔になるほどの偉人ではあるが、伝記でも読まない限り、その人物像に触れる機会はないのかもしれない。

読み始める前に漠然と思っていた疑問は、「どのようにしてこれほど著名な日本の近代化に影響与える思想家になったのか」ということだった。

今回、この本を読んで、ある程度の回答は得られたし、現代に生きる私にも随分と感じ入るところはあった。『学問のすゝめ』や自叙伝『福翁自伝』もぜひ読んでみたくなった。

「福沢諭吉」を日本を代表する思想家にしたのポイントを挙げてみた。

  1. 封建制度や社会の常識・慣習とされていたことに疑問を持っていた
  2. 時流を読んで、世の中に求められることを先んじて学び、時代の波に乗った
  3. 変わり身がはやく、とわられない
  4. 身につけた知識や経験を、世の中に広めることに力を注いだ
  5. お金のことや経営に対する関心・感覚を持っていた

以下、具体的に見ていきたい。

 

1.封建制度や社会の常識・慣習とされていたことに疑問を持っていた

福沢諭吉は、1835年1月10日に大阪・堂島生まれ。現在の大分県である豊後国中津藩の下級武士・福沢百助の次男。父は、大阪の藩屋敷で会計官吏の仕事をしていた。藩内では学問好きとして有名で、諭吉の名前は、手に入ったばかりの『上諭条例』という本に因んでつけたらしい。

父は幼少から秀才の評判が高かったが、家が貧しく満足な勉強ができなかったり、下級武士の身分では出世もできなかったようだ。その父は諭吉が2歳になる前に亡くなったため、一家は中津に戻り、そこで暮らすことになった。

中津は、封建制度がしっかりとして何事も秩序だっている。次男であったこともあり、あまり封建的な考えをしていなかった諭吉には、窮屈な社会であった。はやくそこから脱出したいとばかり考えていた。

このような考えが、当時珍しかったのかは定かでないが、後に、西洋の社会制度や思想を学び、それを近代日本に根付かせようとする活動に繋がるのであろう。

 

2.時流を読んで、世の中に求められることを先んじて学び、時代の波に乗った

諭吉が洋学に触れるきっかけになったのは、19歳のときに兄のすすめで、長崎に蘭学の修業に行ったことである。ちょうど、ペリーの黒船が来航した後の話であり、藩としても洋学を学ぶ人間が必要になったらしい。それまで諭吉は漢学を学んでいて、優秀ではあったようだが、この頃には身分は関係なくなったのであろうか。

特に蘭学を学びたいという思いがあった訳でもなさそうだが、いずれせよ、中津を脱出し、洋学を学ぶチャンスを得たのである。そこで初めて横文字に触れることになる。ただ1年後には、不本意ながら呼び戻されることになった。

ここで諭吉は、中津に戻らず、江戸に出て修業を続けようと決心をする。途中、大阪の蔵屋敷勤めになっていた兄のもとに寄ると、大阪で蘭学を学ぶことを勧められ、緒方洪庵の適塾に入門することになった。

諭吉本人の勉学の才能や行動力が優れていたとは思うが、(封建制度に忠誠心のある)兄も、なかなか先見の明がある。兄弟そろって、学問好きの父親譲りだったのであろうか。封建制度の中にあっても、書物での学びや世の中の動きを照らし合わせて、洋学の重要性に気づいていたのかもしれない。

いずれは塾長まで務めることになる適塾での懸命の修業が、諭吉の洋学者としての基礎を形作ったことは間違いない。

その後、幕府の一行として勝海舟が指揮官を務める咸臨丸でアメリカ・サンフランシスコを訪問したり、遣欧使節団に随行したりなど、実際に自分の目で西洋近代社会をみる機会を得て、日本にも近代化の波がくることを確信したのだろう。

 

3.変わり身がはやく、とわられない

1858年、安政の大獄がはじまったころ、福沢諭吉は江戸の中津藩邸に招かれ、蘭学を教えることになる。翌年、欧米各国との修好通商条約により開かれた横浜港を見に行った際に、蘭学が全く使い物にならないことを知る。相当落胆したが、その翌日にはこれからは全て英語に切り替えると決め、苦心して英語を学ぶことに決めた。その結果、1860年に咸臨丸の一行に加わるのである。

「とらわれない」姿勢は、物事の表面的な意味ではなく、その本質を見ようとするエピソードから見て取れる。例えば、西洋について学ぶときや、訪米・訪欧の際も、その物質的な豊かさを取り入れようとするのではなく、それを生み出した精神や社会の仕組みをそのまま理解しようとした。

幕末から明治維新にかけての幕府側と攘夷派の争いについては、どちらの思想にも組みせず関わらない立場をとっていたし、後の藩閥政府と民権家の争いについても官民調和を図ろうとするなど、世の中一般の人が持つ考えにはとらわれないでいた。

 

4.身につけた知識や経験を、世の中に広めることに力を注いだ

単に洋学を学んだり、私塾で教えたりしただけであれば、ここまで影響力のある偉人にはなっていないかもしれない。福沢諭吉の名前とその思想を著名にしたのは、やはり著書『学問のすゝめ』や『文明論之概略』と「慶応義塾」の創設であろう。教育者としての側面である。

西洋の思想や国民のあり方などを大胆かつ平易にまとめ、これから日本が突き進むであろう西洋化について、広く国民が理解できるように努めていた。著作はベストセラーになり、著述は教科書にも多く採りあげられた。

中津藩邸の塾に起源をもつ「慶應義塾」の運営も本格化させ、多くの塾生を輩出して今日に至る。

 

5.お金のことや経営に対する関心・感覚を持っていた

人と思想『福沢諭吉』には、ベストセラーになった『学問のすゝめ』が合計340万部売れたと、福沢が語った、という記述など、他にも本人が著書がどのくらい売れたのかを意識していたことが分かる下りが多い。学問は立身出世のための「実学」を学ぶべきだとも言っている。

また訪米時には大量の書物を幕府や藩のお金で購入して謹慎を命じられたり、塾の拡張のために大きな借金をしたが本の売上代金で支払ったり、当時、塾生から学費を取りはじめて驚かれたりと、学者に似合わず、お金にまつわるエピソードも多い。浪費家であったのではなく、投資や利益という考えがあってのことである。さすが、一万円札の人だ。父や兄が、大阪の堂島で藩の会計官吏を勤めていたということであるから、元来お金の感覚は鋭かったのではないか。

 

 

これらは、現代で言えば、経営やマーケティングであろうか。自らが、『学問のすゝめ』の中で、説いている内容にも通じるものがある。その感覚が福沢諭吉の思想を世に広めたり、元下級武士が創立した私立学校が日本を代表する学校に成長することを下支えしたのであろう。

こうして、一学者の枠を越えた、日本を代表する思想家・教育者が誕生した。

 

<参考書籍>

Amazonで購入: 福沢諭吉 (Century Books―人と思想)